【連載】ひきこもり放浪記 第13回
“ひきこもりとお金”


(by PhotoAC  /  合成:ぼそっと池井多)

(文・ぼそっと池井多)

前回「ひきこもり放浪記 第12回」で書かせていただいたように、
サハラ砂漠で知り合った友人ヌバアクと私のあいだには、
「お金」というものに関して基本的な価値観の違いがあったのだ。

それでは、ヌバアクとちがって、私は
「お金に価値がある」
と考えている人間だったのだろうか。

ちがう。……いや、ちがわない。

イエスであり、ノーであるから、ややこしい。

「お金に価値がある」と思い切れないから、
せっかく決まっていた優良企業の内定も、
ウソをついてまで断り(「ひきこもり放浪記 第2回」参照)、
アフリカくんだりまで流れてきているのだった。

 

生きていくのにお金は必要か

私が昔から、
「中学校や高校の英語科の教員採用試験に和訳問題として出したらよい」
と考えている一文がある。

喜劇王チャップリンの言葉である。

What you need in your life is courage, imagination and some money.

「人生に必要なものは、勇気と想像力とsome moneyだ。」

そこまでは、英語の先生になろうと思っている人でなくても、
中学3年生でも訳せるだろう。

問題は「サム・マネー some money」をどう訳すか。

「いくらかのお金」
「少しばかりのお金」
「ある程度のお金」

いろいろな訳し方が考えられ、それを選ぶときに、
その人の人生観、経済観がにじみ出るのではないか。

そして和訳の下に、
「この言葉から思い起こされる、あなたの体験談を書いてください」
と「小論文」をはさんでおくのである。

「これから先生になろう」
と考える人たちのためには、とても良い問題であると思うのだが。

 

サム・マネー

問題は、「サム・マネー」の金額をどこに設定するかである。

豪壮なタワーマンションの上層階に住み、
海へ山へ外国へグルメツアーに出かけ、
派手なパーティー仲間に囲まれて
景気よい音を立ててシャンパンを開けまくり、
インスタ映えする写真をアップロードすることで
はじめて自分の幸せを実感できている人にとっては、
「サム・マネー」の設定値は、かなり高くなるだろう。

あるいは、
「お金は多いに越したことはない」
「取れるものは取る」
といった世界観になって、
設定値は(無限大)となり、
「サム・マネー」という原義そのものが消滅するかもしれない。

アフリカへやってきた私は、
バブルの階段を駆けのぼる日本における、そういう華やかな場では、
幸福が感じられなかったのだった。

華やかな場で、一人だけ浮かぬ顔をしていると、
それはそれで厄介がられる存在となるので、
けんめいに幸福を顔に貼りつけて演じていたが、
しだいに顔がこわばり、演技も負担になってきた。

人を不幸にする幸福の演技をやめた先に、
アフリカへ死にに行った私の20代があり、
今もなおひきこもり当事者である私の50代がある。

お金に価値はある。
お金は必要である。
だから生活保護で生き延びている。

 

高級ワインの味

今年(2017年)の夏、
ドイツのある大学で一つの興味深い研究結果が発表された。(*1)

ひらたく云えば、
「なぜ高いワインはおいしいか」
という単純な問題である。

ワインの味を形成する、
アミノ酸なりポリフェノールなり、
なにがしかの成分が多いという話かと思った。

ところが答えは、
「高いワインがおいしいのは、値段が高いから」
ということを強く想わせる結論なのである。

値段が高ければ、
「きっとこのワインはおいしいのだろう」
という期待感が大きくなり、
味覚をつかさどる脳の領域が活発に動くのだという。

そこから先、活性化した脳領域によって
ワインの美味が「知覚」されるプロセスについては、
ワインの成分を分析したり、
人の脳波を調べてわかることではなく、
人間の主体の問題だろう、と私は思う。

高価なワインを一人だけ「これ、まずい」という勇気がない。
安いワインを絶賛して、バカにされるのも恐ろしい。
とりあえず、こういう値段がついているのだから、
その値段にふさわしい味だと評価しておけば無難である。
それで市民社会で居場所を得られる。

そんな人々が、「ふつう」の人として
世界のマジョリティを占めている。

これは何も耳新しい事実ではない。

貧民のくせして私がうるさい日本酒の世界でも、
味と価格はそれほど関係がない。

ブランドものの高級化粧品も、
プラシーボ効果をもつ薬も、
けっして宗教を名乗らない宗教セミナーも、
すべて同じく期待感によって脳がだまされる現象によって
あやうく成立している商品である。

世界経済は、世界人口の脳がだまされることによって回っている。

アンデルセンの童話『裸の王様』で、
うやうやしく裸の王に頭(こうべ)を垂れている「ふつう」の人たち。
ラカンのいう「他者の欲望」だけを欲望している「ふつう」の人たち。

そういう「ふつう」の人々が織りなす幻惑の体系に
与(くみ)するか否か、ということが、
ひきこもりとなるか否かの一つの動機基準ではないだろうか。

 

かけがえのない自分の価値体系

もし、私がワディハルファの駅で、
「自分が去ってから開けてくれ」
などと玉手箱のような渡し方をせず、
真正面からヌバアクにお金を渡していたら、
彼は矜りをもってそれを拒絶しただろうと想像できる。

なぜならば、ヌバアクは、
私などよりもはるかに
「かけがえのない自分」
というものを持っていたからだ。

ヌバアクの対極にあるのが、
「金でうごく人間」
である。

お金をもらえば何でもする人間は、
お金に価値を置いているぶん、
相対的に自分の価値が下がっている。

お金で自分を売り渡す。
時給いくらで、かけがえのない人生の残り時間を売るのである。
人の価値が、すべてお金の尺度に換算され、
第三者へ語られるときに、
名前でなく、人柄でなく、笑顔でなく、歌声でなく、
「時給いくらの人」として語られていく。

そうした価値観の延長線上に、
「結婚するなら、年収xxx万円以上の男性でないとダメ」
「いやなら辞めてもらっていいんだよ。替わりはいくらでもいるんだから」
「あいつは使えない」
といった言葉が吐かれていく。

行きつく先は、
経済的生産性のない者は生きていることを許されない社会であろう。

「働かざる者、喰うべからず」(*2)
「障害者は不幸を作ることしかしない」(*3)
といった言葉が、平然と排泄されていく社会であろう。

いっぽう、おそらくヌバアクの価値観によれば、
自分というものは、自分にとってかけがえのない存在であり、
時給100円だろうが、時給2000円だろうが、
「替え」の効かない人材である。

ヌバアクが生きていたのは、「その人」でなければダメだ、という価値体系である。

「お金」というものが世界に入りこんできたとたんに、
私たちは「取り換え可能」な、
「かけがえのある」存在になってしまった。

「AさんでもBさんでも同じだよね。時給1000円だから。」
と言われる存在になってしまった。

すると、その価値をひたすら上げることが、
生きる意味になりかねない。

少しでも時給の高い人間になることが、
人生の目標になりかねない。

こうして、空虚な価値体系の中で
少しでも上をめざす競争へ巻き込まれていくのである。

上には上がいて、あせる。
いったん上がったら、こんどは「下がるのではないか」とおびえる。

キリがない。
安息はない。

私のようなひきこもりが、就労したくないと思う背景には、
自分の価値を金額に換算されることへの拒絶があるのではないか。

そんな金額に、自分の存在が押しこめられてしまってはかなわない。
そういう思いがあるからひきこもる。

その「かなわない」という気持ちは、
はたして「甘え」という言葉で片づけられるものだろうか。

 

精神的な投資の回収

たとえば、一つの商品を開発するために、
何十億円も投資した人がいるとする。
「商品ができました。さあ、売りましょう」
となったときに、
ついた値段が10円では、売る気をなくすだろう。

「もっと利益が回収できるものだと思っていた。
そんなに安いんじゃ、バカバカしくて売る気にならないよ」
と落胆するだろう。

これは、投資と回収を
経済という座標平面に投影した譬(たと)えである。

じっさい人が投資したり回収するものは、
経済の駒、お金ばかりではない。
精神的なエネルギーもある。

私のようなひきこもりは、あまりにも多大な精神的投資をおこなって
自分という商品を完成させたので、
安値がつくような回収は拒絶している、とも言える。

精神を、何十億円ぶんも投資した結果、
回収できるのが10円では、
とりあえず取引を拒否し、
ひきこもって次の機会を待つほかないのである。

あるいは、他人に売らないで、
自家消費したほうが得なのである。

……。
……。

ワディハルファの駅に残されたヌバアクのまなざしが、
中高年のひきこもり当事者となった私の脳裡に、
しきりと思い起こされる背景には、
このような思索が伏流のようにながれているのであった。

・・・「ひきこもり放浪記 第14回」へつづく

<註>

*1. “Why expensive wine appears to taste better
University of Bonn, from EurekAlert, 14 Aug. 2017
https://www.eurekalert.org/pub_releases/2017-08/uob-we081417.php

*2.「働かざる者、喰うべからず
広く知られるように、もともとこの表現は、人々が「誤った終末論に惑わされることなく、落ち着いて日常の労働に励む」ようにという目的をこめて、新約聖書にしるされた句であるらしい。しかし、のちに1919年、レーニンが社会主義革命を遂行する過程において、大地主・資産家たちを攻撃するために使ったことから意味が変わってきて、近年ではひきこもり批判へ都合よく用いられるようになっている。私が聞いたことのあるかぎりでは、興味深いことに、この言葉でひきこもりを批判するのは、レーニンによってこの言葉で批判された大地主・資産家の層の親御さんが多い印象があるのだが、これは果たして偶然であろうか。

*3.「障害者は不幸を作ることしかしない
相模原障害者大量殺傷事件の実行犯、植松聖被告の言葉。

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5 Comments

  1. 薄切りチェーンソー

    海外旅行を続ける資金はどのように調達してたのでしょうか?

  2. 薄切りチェーンソーさま コメントをどうもありがとうございます。

    よいご質問ですね。
    いずれそうした方面を詳しく述べた回を書こうと思っておりましたが、結論だけ手短かにいうと、当時のアフリカ・アジアなど発展途上国は、日本からは考えられないほど物価が安いので、現地の貧困層の方々と同じ物を食べ、同じ交通・宿泊手段によっていれば、ほとんどお金をつかうことはないのです。
    ドルなど主要な外貨と現地通貨の為替レートの変動を利用して、手元の資金があまり減らないようにすることもできます。イスラエルのように、合法的に労働をして稼ぐことができた国もあります。

  3. 薄切りチェーンソー

    ぼそっと池井多さま お答えくださり誠にありがとうございます。

    私はひきこもりは収入が少なく、何らかの援助を受けない限りは借金が増え続けていくイメージであり、私自身も常に飢えへの恐怖と焦りの中で生活を送ってきました。なので、当事者からの「自腹」だとか海外旅行というワードを見ると、裕福で恵まれた環境に生まれており、金銭的にギリギリで生きる必要がないのだなあ、と勝手に一線を引くような違和感を覚えておりました。何でしょう?この齟齬は・・・海外で友人までできるなんて、自分とは遠すぎる・・・ですがその状況を「自分とは違うもの」と黙殺せずに、できれば理解し何かにつなげていければと思いました。

  4. 薄切りチェーンソーさま 再見。
    私もいまは生活保護で何とか生き長らえているひきこもりなので、あなたが抱いた、
    「海外旅行というワードを見ると、裕福で恵まれた環境に生まれており、金銭的にギリギリで生きる必要がないのだなあ、と勝手に一線を引くような違和感を覚え」
    る感覚というのは、とてもよく理解できます。

    しかし、(少なくとも当時は、)往きの航空運賃さえ持っていれば、その先の「海外旅行資金」などというものは、なくても何とかなった時代でした。(今でも同じようなことをやっている若者をインターネットで見ることがあります。)
    20代の私はもともと「死ぬ気」でしたから、向こうへ着いてからのお金なしにアフリカへ渡ることが平気だったのでしょう。ある意味、何かが麻痺していたのだと思います。
    あれから30年、いまの私が「同じことをやれ」と言われたら、あなたと同じことを考えると思います。「お金がないのに、海外なんて。だいたい向こうでの滞在費、どうするの?」といった思考になるでしょう。

    向こうで「友人ができた」ことについても、けっして作ろうとしていたわけでなく、本シリーズ第7回 [http://www.hikikomori-news.com/?p=1668] に書かせていただいたように、砂漠のど真ん中で熱中症で死にかけたために友人ができてしまったわけです。あなたも、同じ場所で死にかければ、どんなに内向的なご性格であっても友人ができるかもしれません。

    したがって、お考えになったような隔たりはあるように見えて、じっさいには結構なかったりするのだと思います。

  5. らぴ

    楽しく読ませていただきました。
    >私のようなひきこもりは、あまりにも多大な精神的投資をおこなって
    自分という商品を完成させたので、
    安値がつくような回収は拒絶している、とも言える。

    というところ、よく分かります。
    私は、ぼそっと池井田さまのちょうど10歳上の世代ですが、就職活動そのものがまったくできませんでした。
    回収を考えるどころか、労働市場の商品として俎上にのせることすらできない状態だったと思います。

    それは子ども時代に荒ぶる母の精神を鎮めるために、人身御供として自分自身を差し出してしまったので、実体としての私はもはやスカスカの状態にあり、市場に提供できるレベルにはまったくもって達していなかったからです。

    子ども時代に行ったべらぼうな不等価交換、莫大な精神的持ち出しは、その後の人生を大きくむしばみますね。