【連載】ひきこもり放浪記 第12回 
“バックパックの隅に眠っていたお手玉”


(PhotoAC)

(文・ぼそっと池井多)

前回「ひきこもり放浪記 第11回」で述べたように、
窮屈な夜行列車で眠れないままに、
さまざまなことに想いをめぐらせていたのだが、
その一つが、つい先ほど起こった小さな悔恨であった。

ワディハルファの駅を出発する時のことである。

すっかり仲良くなったヌバ族の青年が、見送りにきてくれたのだった。

ひきこもり放浪記 第7回」に書いたように、
彼には命を助けてもらったと私は思っている。

あの日以来、
彼は私をヤバニ(アラビア語で「日本人」の意)と呼び、
私は彼をヌバアク(*1)と呼び、
互いにとうとう最後まで本名を知らないままであったが、
裸体で暮らす屈強なアフリカの男と、
文明国で育った、ひ弱でうつ病の日本男児のあいだに、
友情と呼んでよい何かが芽生えていた。

ヌバアクは、モノらしいモノを持っていなかった。
しかし、私が持っているモノを欲しがることは、絶えてなかった。

もちろん、彼にも悩みはあった。

人生に関しても、女性に関しても、悩みがあった。
神についても、よく話した。
共通の話題で、同世代の私たちは盛り上がった。

 

記念にあげるモノ

不通になっていた列車がとうとう出ることになり、
村を後にできるとわかった時、
私はヌバアクに、何か記念になるモノをあげたいと思った。

二度と彼に会うことはないだろう。
一期一会の記念になるような、何かをあげたい。

気の利いた旅行者は、こういう時のために
あらかじめ日本を出るときに、
東京であれば浅草あたりで小ぶりな日本土産を何個か買い求め、
バックパックにしのばせておくものである。

ところが私は、
死に場所を求めて日本を発った者であるから(ひきこもり放浪記 第4回参照)、
そんな余裕はあるべくもなかった。

「持ち物の中から、何かあげられるものはないか」

とバックパックの中を引っ掻きまわしてみたところ、
入っているのは私自身が毎日つかうモノばかりだった。
あげてしまうと明日からの旅生活で自分が困る。

そんな中に、一つだけ、日々の旅生活でつかっていないモノが入っていた。
手のひらに納まるほどの、小さなビニール袋の玉である。

振ると、お手玉のようにシャリシャリと音がする。

中身は、薬であった。
日本で自殺を考えたときに、コツコツと溜めこんだのである。

死ぬつもりでアフリカへ行くことにしたあとも、
なぜか捨てるにしのびず、
この自殺薬を「予備のために」旅へ持ってきていた。

10錠で1シートの包装ケースのまま薬を持っていくとなると、
なにせ致死量であるから、
溜めこんだ薬の総量はかなりの体積を占めることになる。

バックパックの中身は、
1gでも軽く、1立方センチでも小さい方が望ましい。

そこで私は、日本を出る前に、
薬を1錠ずつ、プチッ、プチッとシートケースからはじき出して
ビニール袋に集めた。

さらに、菓子やスナック、干しシイタケなどの乾物、湿気を嫌う香辛料など、
ありとあらゆる食品についてくる、
乾燥剤、防湿剤、酸化防止剤、脱酵素剤などを掻きあつめ、
そのビニール袋にぶちこんだ。

何かそのようにすれば、
高温多湿なアフリカでも薬が変質しないだろうと考えたのである。

そのうえで、湿気が入り込まないように、
袋の口をきつく縛り、ビニール袋を三重にした。
すると、自殺薬の塊は、
ちょうど米を2合弱入れたような、
少し大きめのお手玉の手ごたえとなったのである。

それが、丹精こめて作ったお守りのように、
私のバックパックの一角にうずくまっていた。

そこで私は我に返った。

「こんなものを、ヌバアクにあげるわけにはいかない」

 

共通の価値とは何か

そこで私は、お金を包むことにした。

北方の隣国エジプトからワディハルファへ入ってきた私は、
使いきれなかったエジプト・ポンドという通貨を
少しばかり不法所持していた。

世界的に見たら、
政情不安なエジプトの通貨を欲しがる人は少ないが、
スーダンのように、もっと政情不安な国では、
そのような通貨でも自国のものよりマシだともてはやされるのである。

国境の村では、なおさら使い道があるのにちがいない。

日本円にしたら、300円に満たない金額だが、
この村ではかなりの価値に相当するはずである。

そもそもお金とは、世界に共通する価値のかたちであり、
お金がきらいな人間などいるはずもない。
ヌバアクも、これで私におおいに感謝するであろう。……

そう考えた私は、英語でメモを走り書きし、
数枚のエジプト・ポンド札とともに封筒に詰めた。

「ありがとう。君のことはずっと憶えていると思う。
君はぼくの命を助けてくれた。これは、せめてもの気持ちだ」

ヌバアクは文字を読めないが、
友人である元エチオピア貴族ひきこもり放浪記 第8回参照)の所へ持っていけば、
よしなに取り計らってくれるだろう。

 

険しい視線

駅といっても、屋根もプラットフォームもなかった。

ワディハルファ駅。2005年ごろと思われる。
写真は「チキュウサンポ」による。
私がこの駅を発った1989年には、
ベンチや木もなく、ただ砂地だけがひろがっていた。

列車に乗り込む前に
「ぼくが完全に去ってから開けてくれ」
などと、玉手箱のようなことを言って、
ヌバアクにその封筒を手渡していた。

ところがヌバアクは、私が車両に乗りこむやいなや、
すぐに封筒の端を乱暴に引きちぎった。

中に入れてあったエジプト・ポンド札が
砂風にあおられて飛びそうになった。
それをがっしりとした手で受け止めたとき、
ヌバアクは列車の中の私へ怪訝な視線を投げた。

視線が語っていたのは、感謝ではない。
当惑というのも、少しちがう。

ガタンと小さな衝撃が、列車の先頭から後方まで
恐竜の尾に走る神経伝達のようにつたわっていき、
窓の外がゆっくりと動き始めた。

じょじょに遠ざかるヌバアクの顔は、
憮然としているように見えた。
微量の怒りさえ、含んでいるようである。

私は、はじめて
「しまった。よけいなことをしたのかも」
と思った。

ヌバアクの姿は、険しい表情のまま遠ざかっていき、
やがて米粒のようになり、
ワディハルファの駅とともに、
砂塵の彼方に消えていった。

彼の目は、

「おれは何も、こんなものが欲しくてお前を助けたんじゃない。
こんなものが欲しくて、お前と交友してたんじゃない」

と言っていたのではないか。

私の心には、後悔が発生した。

裸同然で暮らしている彼が、
サハラ砂漠で生きていくのに、
基本的にお金は要らない。

生活に必要な物資は、すべて物々交換で手に入ってくるのだ。

同じ村のはずれに住んでいる元エチオピア貴族であれば、
もともと資本主義社会で生きていた人であるから、
お金は、あればあるで、何か使い道を考えるかもしれない。

しかし、ヌバアクにとっては、
お金は、「不要」と言い切ってもよい代物であり、
むしろ、ただ彼の人間としての誇りを傷つけるだけの紙片ではなかったか。

欲しがっていたわけでもないのにお金をもらった方は、
感謝をおぼえなければならない立場へ追いやられるわけである。

「貧しい者は、喜んでお金を受け取るだろう」

というのは、
産業社会に巣食う、人類への普遍性を持たない、
俗人たちの硬直した偏見であり、
とんでもなく傲慢な考え方だった。

ヌバアクには、
たとえ彼が理解しようとしまいと、
心をこめた言葉を別れに投げかけ、
一期一会をしめくくるだけの強い握手をするだけでよかったのではないか。

「なぜ、それをしなかったのか」
と己れに問えば、
自分にそれだけの「握手の力」があると思っていない、
という認識へたどりつくのである。

もちろん、握力のことを云っているのではない。

……。
……。

やがて長い歳月を経て、五十代になった私は
ひきこもり当事者として、
ある支援者から、ある支援アプローチを受けた。

内容は詳しく書かないが、
どうも支援者がその人なりの自己実現を果たすためだけの支援に感じられた。

私は、自分がムッとしていながらも、
その気持ちの詰まりが言葉になって流れ出していかないのを感じた。

同時に、自分の表情が誰かに似ていると思ったが、
なかなか思い出せなかった。

……が、思い出した。

そのときの私の目は、
三十余年前、砂風にけむるワディハルファの駅に残され、
憮然と私を見上げていた、
ヌバアクのそれに似ていたのであった。

 

<註>
*1.「ヌバアク」とは、アラビア語で「ヌバの兄貴」という意味だと思って、私は彼をそう呼んでいたが、のちにアラビア語の話者から誤用だと指摘された。だが、ヌバアクにとってもアラビア語は外国語であり、呼称としては問題なかった。

・・・「ひきこもり放浪記 第13回」へつづく

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2 Comments

  1. ともひこ

    今回も読ませる内容でした。
    そのヌバ族青年に対する筆者の推察は、ほぼその通りだと思われますね。
    その青年にすれば、いたくプライドを傷つけられた、ということなのかもしれません。

    でも、筆者が何かお礼をしたかったという気持ちを否定するのもためらわれます。
    何がしかの「証し」を渡したかったにすぎないともいえるでしょうから。

    こういう「すれ違い」って、ありますよ。
    変な言い方で恐縮ですが、筆者にしてみれば、この過去の「小さな失敗」を抱きしめて生きていくしかないと思いますね。

    約20年前、1998年に訪れたネパールで、英語が比較的達者な20代青年が近づいてきて、何となく話が合い、首都カトマンズの名所旧跡を案内してもらい、あちこち歩き回り、まあこちらはお礼のつもりで、夕食ごちそうして別れようとしたんですけど、その別れ際に、彼から「留学費用のため、少しでいいから助けてくれないか」と相談を持ちかけられたことが、なぜか忘れられないですね。ちょっと当惑してこちらが黙っていたら、すぐに笑顔になって「いや、いいんだ、忘れてくれ」と言ったんで、どこまで本気? で言ったのか、そのために自分に近づいてきたと受け取られるのも、半ば彼の本意ではなさそうなところもあったのですが…。いまでも、そのときのやりとりが忘れられないですね。

    わたしは先ほど、「小さな失敗」と書き込みましたが、「失敗」と断定していいのやら、それにも戸惑いを覚えます。

    いわば、とてもセンシティブな「ずれ」なんだと思いますよ。

    ちょっとセンチメンタルかもしれませんが、そのヌバ族の青年も、当初こそ「プライドを傷つけられた」という思いが先行した可能性は否めませんが、長い年月をへて、そのとき交流した日本人青年がどういう思いで、いくばくかの金銭を手渡そうとしたのか、あれこれ深く考えて、自分を傷つける意思はなかったんだろう、という結論に達していることだってあり得ると思いますね。

    生きていくと、いろんな「ズレ」がありますよ。その苦さをかみしめつつ生きていくことこそ、人生なんじゃないかと思いますね。

  2. ともひこさま コメントをどうもありがとうございます。
    おっしゃるとおりです。
    私の場合、「小さな失敗」と「ズレ」の連続でした。
    そうでない時のほうが少なかったようなものでした。
    人生とは、そんなものかもしれませんね。

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