【連載】ひきこもり放浪記 第8回 “月の砂漠でひきこもりが語ったこと”


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(文・ぼそっと池井多)

前回「ひきこもり放浪記 第7回」でお話しした
サハラ砂漠のまっ只中の丘に立つテントの中へ入っていくと、
そこにはヌバ族ではない、アラブ人でもない、
しかし明らかにアフリカ人の肌をもつ紳士が座っていた。

「紳士」と私はあえて書く。
見るからに威厳を秘めた、まっすぐに伸びた背筋。
思慮深い、品のある顔立ち。
知的なまなざし。

高雅なアクセントをもつイギリス英語で、
「こんばんは。ようこそいらっしゃいました」
と私に言った。

服装は貧しい。
地元のアラブ人が着ている、ガラビーヤと呼ばれるアラブ服を身にまとっている。
しばらく洗っていないと見え、
白い生地は砂漠の砂のいろ、黄土色で薄汚れていた。

私をそこへ導いたヌバ族の若者と、この貧しい身なりをした紳士は、
なにやら私の知らない言語でしばらく会話した。
おそらくヌバ語なのだろう。

やがて紳士は、テントの奥にある大きなヤカンほどの甕(かめ)から、
日本酒にして半合くらいの液体を取り出し、
当地では貴重なグラスにそそいで、
「さあ、どうぞ」
と私に出してきた。

酒であった。

無色透明である。
米焼酎のような香りが立った。
アルコール度数は20度ぐらいであろうか。

素人が密造する酒によくありがちな
荒削りで酸の立った舌触りはなく、
ほどよく熟成の丸みを帯びた逸品であった。

イスラム圏に入ってから酒類を口にしていなかった私は、
喉から胃へ、久々に展開していく熱い悪の味わいに、思わずうなった。

「うまい」

紳士は、うれしそうな顔をした。

そのとき、私がひそかに恐れたのは、ぼったくりである。

ただでさえ、禁酒国における酒ほど、値の張るシロモノはない。
法外な値段を要求されるのではないか。

すでに酒は飲みこんでしまった。
この事実を脅迫の種に使えば、
いくらでも金をむしりとれるのである。

私は、恐れながらおずおずと尋ねた。

「いくら、お払いしましょうか」

すると、紳士は現地通貨スーダン・ポンドで何がしかの数字を口にした。
安堵した。
まったく取るに足らない値段であった。

この辺境の地では、おそらくその金額が、
一ヶ月分ぐらいの生活費に化けるのだろう。

安心した私は、微量の酔いも手伝ってか、
少しく蛮勇(ばんゆう)を得て、こう踏み込んだ。

「あなたは、同じアフリカ人でも、この地域の方ではありませんよね。
どこからいらしたのですか」

口に出してから、
なにやら訊いてはいけないことを訊いてしまった気がした。

ところが、30代も終わりごろと思われるその紳士は、
まるで気分を害する様子もなく、
おもむろに彼の来歴を語り始めたのである。

 

紳士の来歴

このスーダンの東隣りにエチオピアという国があります。

中世の昔から、私たちのアムハラ語で「ネグサ・ナガスト(王の中の王)」と呼ばれる為政者が中心となって、アビシニア高原に割拠する諸侯(ラス)が政治をおこなっていました。
ヨーロッパの言葉では、「ネグサ・ナガスト」は「皇帝」と呼ばれました。
……そう、あなたがた日本人と同じように。(*1)、

私はラス、つまりエチオピア貴族の末裔で、
父は政府高官であり、
私も、そのまま体制が続けば将来を約束された若手官僚でした。
あなたが、私の英語を英国アクセントだというのは、
幼少期にイギリスへ送られ、全寮制の寄宿学校(*2)で教育を受けたためです。

私たちがお仕えしていたのは、
1930年に皇帝に即位されたハイレ・セラシエ1世です。

皇帝陛下は民主的な憲法をつくり、立憲君主制へ移行されました。
エチオピアをヨーロッパ諸国と同じ文化レベルへ引き上げようと、
さまざまな近代化政策を実行されたのでした。

しかし、
「庶民は、穀物がなくて砂を食べている」
などと欧米のメディアに報道され、
1970年代に入ると革命が起こりました。

歴史上起こったさまざまな他の国の革命と比べると、
エチオピアの革命は、
初めのうちはひたひたと静かにゆっくりと進行しました。

ところが、そのあいだ皇帝陛下は、
燎原(りょうげん)の火のように広がる革命勢力へ
反撃らしい反撃を何一つなされませんでした。

断固たる抗戦を進言する側近の貴族に、陛下は、
「われわれの時代は終わったのだ。
彼ら革命軍は、私たちと闘う必要などないのだよ」
とおっしゃったそうです。

1974年9月2日早朝、
革命軍がついに王宮へなだれこみ、皇帝陛下を逮捕しました。
自らを取り巻いた軍人たちに対して、陛下は、
「君たちの国家建設のお手並みを拝見するとしよう」
とだけ述べ、静かに微笑まれたということを、
革命軍に同行していたアメリカの新聞記者が書き残しています。

首都アジスアベバの中央駅の横に鉄道操車場があり、
そこが処刑場として使われていました。

一日一本、朝の定刻に列車が出ていく。
列車が響かせる鉄路の音が、街中に高々とこだましていく。
その音にまぎれて、
王族や貴族たちを銃殺する機関銃が火を吹いていたのです。

市民は、残虐が行われているとはつゆ知らず、
革命のよい面だけを伝えて、革命を賛美していました。

皇帝陛下も殺されました。
私の親族? ……それは語りたくありません。

私自身は身一つでからくも亡命しました。
とりあえず海沿いにある小さな隣国ジプチへ逃れ、
体勢を立て直す場を求めて、あちこちを転々としました。
アフリカ大陸の国々だけでなく、中近東、ヨーロッパ、北アメリカまで行きました。

ヨーロッパ風の生活には、幼時からなじんでいたので、
言語や習慣において、何ひとつ苦労はありませんでした。

スイスの銀行に蓄えていた財力と、
幼いころにつちかった教養をもってすれば、
どの先進国でも社会に進出することができました。

故国エチオピアでは、
私たちを倒した革命政権が続いていましたが、
彼ら政権の基盤は不安定きわまりなく、
「朝いちばんに起きて、中央放送局のマイクを握った者が
その日の大統領になる」
などと言われていました。

閣僚たちは、閣議の最中に殺し合いが始まった時のために、
銃を携帯して閣議に臨んでいました。

だから、辛抱づよく時を待てば、やがて彼らの政権は内部崩壊し、
私たち帝政の勢力が故国に復帰する時が来るかもしれない。……

そう考えて私は、世界中をさまよっていたのです。

やがて私は、
故国エチオピアの隣、スーダンへ舞い戻ってきました。

この国は貧しくて何もないけれど、
どこよりも故国に近く、状況が風のように伝わってくるからです。

大きな都市で暮らすことは危険でした。
私がまだ生きていることが知られ、
噂として故国へ伝わり、暗殺者が送りこまれてくるかもしれない。

いまの私には何の権力もなく、
私を殺したところで何にもならないはずだが、
権力をもつ彼らは、そうは考えない。

権力をもっているということは、それを失うのを恐れている、
ということなのです。

だから私は、このスーダンの中でも、
目立たない町へ、目立たない町へ、と移っていきました。

いつのまにか私は、このような北の果て、
サハラ砂漠のど真ん中、
ワディハルファという村にたどりついていました。

鉄道駅のある村の中心から、いくつか砂の丘を越えたこの場所に、
私は寓居のテントを立てました。
もう一つ丘を越えればナイル川なので、水は得られます。

毎日のように、風が織りなす砂紋をながめているうちに、
しだいに私には、何もかも
どうでもよいことのように思われてきました。

権力闘争に明け暮れた、醜く生々しい世界が、
この砂漠の彼方にときおり浮かぶ蜃気楼(しんきろう)のように、
ゆらゆらとはかなげに見えてきました。

それは、とめどもなく空虚な気持ちとともに、
ある種の明晰(めいせき)をも、私にもたらしました。

人間たちの世界を空から眺めているようでもあるのと同時に、
私はようやく地面に足がついたような心地にもなりました。

人は、贅沢(ぜいたく)であるほど、悩みも増えます。
所有する邸宅が広大であるほど、
それをまともに美しく維持することに、
心を砕かなければなりません。

社交界に知人友人の数が多ければ、
それだけクリスマス・プレゼントを用意しなければなりません。

贅(ぜい)をつくした生活は、
それを見せる相手に対するプライドとしておこなっていたものですから、
相手がいなくなれば、
いったいなぜおこなう必要があるのでしょう。

便利だからでしょうか。
ところが、小さな生活ほど便利なものはないのです。

このテントの中だけで、
私のlifeは成り立つことがわかったのです。……

おごそかな選択

「life」は、「生活」とも、「人生」とも訳すことができる。
かつてエチオピア貴族であった彼は、
日本語であればどちらの意味をこめて
「life」と言ったのだろうか。

いつしかテントの外は暗くなっていた。

月光が降り、青白く表(おもて)を変えた砂漠の中で、
そのあと彼がゆっくりと噛みしめるように放った言葉が、
まるで一つの託宣のように
幽玄な重みをもっておごそかに私に響いてきた。

「私は、ここでひきこもることにしたのですよ。」

それは、彼にとって「生きる」という選択に等しかった。

私は、彼の国の革命の良し悪しを論じられる立場にない。

ただ、そのとき私の目や耳がとらえたものは、
よけいなものをすべて削ぎ落としたかたちで、
彼が新たに構築している生の一つの態様であった。

……。
……。

革命を起こしたエチオピア軍事政権は、やがてこの2年後に崩壊し、かわりに民主的な文民政権が誕生した。
それにともなって、帝政時代の貴族の多くがエチオピアへ帰国したという報道を私は伝え聞いたが、その時すでにサハラ砂漠からは遠く離れていた。ワディハルファの村のはずれで出会った、とうとう名前も聞かなかったこの旧貴族が、そのとき帰国したのか、それともずっと砂漠の奥地で暮らすことを選んだのかは、知る由もない。

<註>
*1:日本の天皇は、たとえば英語ではemperor(皇帝)と訳される。欧米語では「皇帝」には専制的なイメージが付与される。

*2:ボーディング・スクール(Boarding School)のこと。イギリス・フランス・スイスなどの寄宿学校には、世界各国の上流階級が子弟を留学させる。

・・・「ひきこもり放浪記 第9回」へつづく

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