【当事者による書評】「ひきこもり」経験の社会学 関水徹平


61sdyyzmz0l1
(文)木村ナオヒロ
「ひきこもり」経験の社会学 関水徹平

3%。

この数字は、自室から出てこないひきこもりの割合を示す。 外出をしているひきこもりに至っては、2010年のKHJの調査によれば51パーセントになる。 多くのひきこもりは、空間的には、ひきこもっていない。 ひきこもりは家族以外との人間関係を失い、社会参加をしていない者を指すからだ。 ひきこもりとは何なのか。 実はよくわからないまま、わずか3%に過ぎない閉じこもりがイメージされてきたのではないだろうか。

筆者(木村)自身は筑波大学病院で初めて斉藤環先生に出会ったときに、

「あなたは、ひきこもりです」

と言われて、衝撃を受けた。

毎日、外出していたから自分がひきこもりだとは思っていなかったからだ。

しかし、ひきこもり関連の本を読んでいくと、そこに書かれているのは自分のことだと実感することになった。

ひきこもり経験者が抱える苦しみや葛藤が、自分が経験したことと重なったからだ。

本書は、「ひきこもり」経験の社会学というタイトル通り、ひきこもり経験者の主観的意味世界が、社会科学者によって客観的意味世界に再構成された内容になっている。

したがって、ひきこもり経験者のみが共感して分かり合える世界を、ひきこもり経験がない人間もこの本を読むことによって理解することができるのではないだろうか。

ひきこもりを経験したからと言って、それをどう理解したらいいかという整理は困難であるため、当事者・経験者がこの本を読む意味もあるだろう。

本書は、博士論文が基になっているので簡単ではない。 聞き慣れない横文字の学者が出てきて読み進めることが億劫になるかもしれない。 しかし、ひきこもり経験があればそれが補助線となって理解を助けてくれるはずだ。 ひきこもり当事者・経験者の声を丁寧に拾い上げる解説はとても鮮やかだ。

 

【内容】

少しだけ内容を紹介したい。

本書は四章と四つの補論と終章という構成になっている。

第一章では、多くのひきこもり経験者が、「なぜ働かないのか」というような他人から与えられた<問い>によって自分を責め続け疲弊し、「自分の問い」に取り組む余裕がないことを指摘している。 「自分の問い」に目を向け、自分なりの社会との適応の仕方を模索する生き方が必要であることを経験者の語りから導き出している。

 

第二章では、政府でも、企業でもなく、家族だけが生活保障の責任を担い続ける点を家族にとってのひきこもり問題として取り上げている。

日本は、企業による生活保障を前提にしてきたために、政府による生活保障は限定的だった。そのため、企業福祉による包摂が縮小した現代では、生活保障を家族に頼らざるを得なくなっている。

そこで、OECD諸国の多くで導入されている社会手当を充実させて、家族の負担を減らすことが重要であるとする。そうすることによって、ひきこもり経験者は家族から責められることなく「自分の問い」に取り組む環境を整えることができるという。

 

第三章では、周囲の世界に受け入れられないという認識があるのならば、ひきこもりというカテゴリーを利用したり回避したりしつつ、参加できそうな状況に参加してみるという試行錯誤を勧めている。

 

第四章では、学校を出て就職するという高度成長期以降の人びとにとっての支配的な人生の物語ではなく、オルタナティヴ・ストーリーを見出すことによって、現実にフィットしなくなってしまった経験から抜け出すことを紹介している。それは「私」の物語を受け入れることである。

 

終章では、ひきこもり経験者とは、人の価値観や生き方をかくあるべきとする同化主義と格闘し、自分のままならない生を受け入れようとする者としている。

 

補論においては、ひきこもりを医療化によって個人の病理に還元することは、社会問題として解釈される可能性を縮小させ、ひきこもり問題と社会構造のつながりを隠蔽すると指摘している。

また、就労や就学というゴールをあらかじめ決める支援ではなく、支援される当事者の生活の質である主観的QOLを軸にした支援を紹介している。

 

詳細は実際に手に取って確認していただきたい。 図書館にリクエストを出して購入してもらってもいいのではないだろうか。 広く読まれることを期待したい。

 
「ひきこもり」経験の社会学 関水徹平