「歳月の喪失 ~カスパー・ハウザー~(上)」


「引きこもり」のエスノグラフィー

(文・写真 喜久井ヤシン)

  もしも大人の姿で生まれてきたなら

 

『生まれたとき、子どもが一人前の人間の身長と体力をもっていたと仮定しよう。』と、ある思想家が空想する……。生まれたときに、いきなり大人の体をもっていたらどうなるか?
『この大人とも子どもともつかないものは、完全に無能な人間であるにちかいない。(中略)自分の外にある対象をなにひとつ知覚することがきないばかりでなく、それをかれに知覚させる感覚器官になにひとつ伝えることもできないだろう。目に色も見えず、耳に音も聞こえず、触れる物体も体に感じることができず、自分が肉体をもっていることさえわからないだろう。』
いくら大人の体をもっていたところで 、その人間に経験や学習による成熟がなければ、中身は赤ん坊と変わりない。見た目がいくらちゃんとしていたとしても、見るもの触るものを理解できないし、意思疎通することはできない。……これは教育書の古典「エミール」に出てくる一節で、ルソーが、自らの主張を語るための、足がかりとして書かれている。
どんなに外見が年老いていても、真面目そうに見えても、中身がともなわなければ、人間としてはからっぽなものでしかない……。あたりまえといえばあたりまえのことだけれど、私はこの肖像の一部を、自分自身によって知っているように思える。
十代から二十代前半にかけての……そしてまだ別に終わったわけではない……私の引きこもり的なありようは、自分という一人の社会的動 物のかたまりを、からっぽにさせる一時期だった。人間関係とか、恋愛とか、社会的なスキルアップとか……、失ったものを数えるなら、指の足りなくなるものだけれど、まとめて一言で言ってしまうなら、そこには歳月の喪失があった。人と出会えたかもしれない時間、情熱をかたむけられたかもしれない時間を、「私」は何年分も失ってきたように思う。

  カスパー・ハウザーの謎

 

歳月の喪失、ということが、比喩ではなく、現実の一人の人間に起きた例がある。ルソーの描いた「大人とも子どもともつかないもの」のように、子供時代を生きずに、大人の体をもって、突然社会に放り出された青年の話。
それは、約190年前のこと。1828年のドイツ、ニュルンベルクでのことだった 。ある日、自力ではほとんど歩くこともできず、会話もままならない、謎の青年が発見された。警察が保護したものの、誰も知っている人はなく、どこから来たのかもわからなかったため、当初は精神病者の一種だと考え軽視された。けれど、ためしにとペンを与えてみると、青年は意外にも喜びの表情を見せて、スラスラと文字を書いた。それは「カスパー・ハウザー」という、自らの名前だった。
生まれたての青年だったといっていい、カスパー・ハウザーは、知能が低いわけでもなく、体に障害があるわけでもなかった。彼は保護されて教育を受けたのちに、自身が光も音もない監禁状態で育てられた、猟奇的な半生を自らの言葉で伝えた。
ハウザーは三歳頃になんらかの理由で牢獄に閉じ込められ 、いつもパンと水が置かれていたが、それを持ってくる者の姿を見ることはなかった。一時的に、文字を書くための怪奇的な学習を受けていたため、自分の名前だけは書くことができた。誰ともふれあうことのないまま、十数年の年月が過ぎさっていったが、ある時なんの前ぶれもなく、薬で眠らされ、馬車に乗ってきたかと思うと、いきなりニュルンベルクの街中に放り出されていた。世の中のことを一切知らないままで、彼は突然、大勢の人が行きかう社会と出会うことになった。

 空の美しさも知らなかった

 

 ……このハウザーの謎については、これまでに千以上の文献が出され、著名な監督によって映画化もされている。彼の出自はDNA鑑定をされた現在でもはっきりしていないが、 王族の後継者争いに巻き込まれた悲劇の王子、という説があり、歴史上のミステリーの一つとして、ドイツなどで一定の知名度をもっている。
最も重要な記録を残した人物に、事件の研究者として深く関わり、ハウザーの面倒も見ていた学者、A・v・フォイエルバッハがいる。フォイエルバッハの残した一連の記録によると、ハウザーは当初、自分の見ているものが何であるかも理解できていなかった。
『昼と夜の区別すらできず、空の美しい輝きなど知るよしもなかった。』
人が育っていくうえで、当然知っているはずのものも、見てきたはずのものも、ハウザーにはまるでわからなかった。ハウザーが教育を受けて、世の中の常識が見えるようになってきたとき、その世界はどのようなものだった だろう?無数の人々が生活をして、思い思いのことをして、社会が営まれているというのに、自分はそこに加わることなく、人生を牢獄の中で過ごしていた。
……種類は異なっているにしても、その風景と共通するものを、「私」の目は見たことがあるように思う。
 「歳月の喪失 ~カスパー・ハウザー~(下)」につづく
参考文献
ジャン=ジャック・ルソー著 今野一雄訳「エミール 上」 岩波書店 1962年
A・v・フォイエルバッハ著 中野善達・生和秀敏訳「野生児の記録3 カスパー・ハウザー 地下牢の17年」 福村出版 1977年

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4 Comments

  1. T

    こんにちは。
    ずっと前から喜久井ヤシンさんの記事をうん、うん、と読ませてもらっているおそらく同年代くらいの者です。ここに書くとどこに送られるのかわからないままに書いています。

    喜久井ヤシンの記事を読ませて頂いたのですが、ひきこもり、それも長期のひきこもりの内面をここまで表現できる人を自分は知りません。
    とりあえず一人の人間がそう感じたことをここに書きとどめておこうかなと思いました。

    • 喜久井ヤシン

      メッセージありがとうございます。
      書いていて良かったと思えるお言葉で、励みになります。

  2. T

    なるほどここに載ってしまうんですね、
    記憶が曖昧ですが、初めて読んだ喜久井ヤシン さんの記事は茹でガエルのものだったと思います。
    ことばはわるいですが、ネット上には孤独やひきこもりを巡遊したくらいのぬるい記事が沢山あるように思えます。 
    そういった中で、ともすれば表現することから逃避しがちなひきこもりという状態像がこれでもかというほど客観的で生生しく描写されていたことに衝撃を受けたのをおぼえています もちろん僕一個人の考えですが
    自分も喜久井ヤシンさんと経緯や期間、現状の思いなどとても似ている部分が多いのですが、自分の場合は中学校以来徐々に読書や表現をすることがなくなっていったので、また文章への興味を抱かせてもらった点で感謝しています。
    とはいえ、ひきこもりというものは矛盾した存在だと思うので、こういった投稿をすることはサイトやライターの方にとっていいのかわるいのか僕としては判断できません、が共感への誘惑にかてず投稿してしまいました。一読者としての思いをつたえたかっただけです。 
    載せるかどうかはどうかそちらの判断で一向に構いませんのでどうぞよろしくおねがいします。では。

    • 喜久井ヤシン

      また文章への興味を抱かせてもらった、とはもったいないくらいの言葉です。

      コメントはとてもありがたく、こちらこそ感謝します。