引きこもりにとっての「人生の意味」


「引きこもり」のエスノグラフィー

(文・写真 喜久井ヤシン)

私が平気でカレンダーを買うようになったのは、二十歳をいくつか過ぎてからのことだった。
それまでは、次の一年を自分が生きて過ごせるという感覚がなかったので、無駄遣いの奇癖みたいに、抵抗感のある買い物だった。
毎年部屋には置いていたので、結局は年があけた頃に購入するのだけれど、「私」は12ヶ月分もの余白を見ると、奇妙な違和感にとらわれた。一ヶ月後や半年後どころか、自分が本当に生き延びて、一年も先まで過ごすなんて実感は、十代の時期に一度も得ていない。
七歳の頃からガッコウと折り合いがつかなかったことや、教師や養育者との軋轢(あつれき)から、「私」の十数年は悲惨な境遇で過ぎていった。
十代の日に、「私」の目 が映していたのは混乱と狂騒の風景で、世界はピカソの絵みたいにイカれていたし、ひどい時には人間の顔が吐瀉物(としゃぶつ)みたいに見えていた。
とてもじゃないけれど安心して生きていけるような状況はなく、「私」はいつもどこかで、この世から失敬することを胸で思いながら過ごしていた。

サバイバル ――生きのびること――

…必然的なことに、フランスのラウル・ヴァネーゲムという思想家は、生の概念を二つに分けている。

生きたいと思うこと Desire to Live

生きのびること Survival

心的外傷を受けた人に、サバイバー(生存者)という言い方があるけれど、この分類からしても、適切な言葉だと思う。期待や喜びをもって、夢へと向かっていくあの能動的な生のことではなく、生き抜くことだけで精一杯な、苦しみばかりが続くあの生のこと。
一番多くの経験をしうる時代に、「私」は社会との関係を断って生きていた。
それは半分の仮死状態だったように、欲求をもって生きたのではなく、必要最低限に生き延びてきたものだったと思う。
人生の春、なんて言われる若い時を、「私」は時期はずれな冬眠をして越してしまった。
ふり返ってみて、一人ぼっちだったからっぽの生を、いったい私はどうしたらいいのか、歳月の意味がわからなくなってしまう。

人生の含蓄とは何か

……古典的な問いで、人生の意味とは何か、ということを、「私」は自殺にひかれる思いとともに、ずっと考えつづけてきた。
多くの哲学者が解答しようとしてきたし、歴史的な宗教家でも、自己啓発本の書き手でも、応じようとしてきたよくある問い。いくらでも答え方はあるだろうけれど、私としては、「人生の意味」と言ったときに、まず「意味」という言葉の、その意味を検討にしておきたいと思う。
「意味」という単語を、いくつかの辞書で引いてみる。定義のための重要な言葉としては、一つには内容、一つには意図・目的・動機・理由、また、価値・重要性といった言葉などがあげられている。それともう一種類、定義のキーワードとなるものに、趣・味わい・ 含蓄(がんちく)がある。たとえば小学館の「国語大辞典」では、『い-み 【意味】①表現の、深みのある趣。含蓄のある味。』と、何種類かの分類で筆頭に出されている。三省堂の「大辞林(第三版)」でも、「意味」の定義の一つに、『表現によって暗示的にほのめかされる深い味わい。含蓄。』がとられている。そもそも「味」という文字が含まれているように、「意味」には味わいの含意がありえる。
「自分の人生の意味とは何か」という問い方だと、神様とか、世界とか、どこかからかはわからないけれど、自分の外側に回答を求めるような方向性が出るように思う。けれど、「自分の人生の含蓄(がんちく)とは何か」という問い方をすると、他の誰かから教えられるのではなく、自分自身で返答するような方向になるように思う。

人生から問われている

自分が人生を問うのではなく、人生が自分を問うているとしたとき、私は心理学者のV・E・フランクルを思い出す。有名なのは、アウシュビッツの体験を描いた「夜と霧」だけれど、思想上の代表作に「死と愛」(霜山徳爾訳 みすず書房 1983年)があり、フランクルはそこで、「人生の意味」を訴えている。

『人間が生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない。』

……フランクル自身が「人生の問いのコペルニクス的転換」と言うように、「意味」の問いかけが、自分から外にではなく、外から自分へと向かうものに反転している。
ただ、この「人生の意味」の問いかけの方向は、 「私」にとってより辛いものになる。解答のない世界に対して、他人まかせな、厭世観(えんせいかん)でいるだけではこの問いは終わらない。
解答権が「私」の側にしかないなら、自分の人生でこの問いに答えなければならないけれど、「私」の姿はといえば、人と交流のできない、不社会的な、みすぼらしい「引きこもり」だ。
引きこもり状態の居心地の悪さは、労働などの社会参加をしていないことだけのせいではない。人生の意味…もしくは人生の含蓄に、世界を恐怖したままの、一人ぼっちの「私」のあり方では答えることができない、その意味への沈黙も要因になっている。人生の意味……。この問いに応答するためには、最低限に生き延びるだけではなく、自ら生きたいと思う生が、必要になってくるのだろうと思う。
このままではいけない、今のままではいけない……と、焦り、悩むけれど、「私」はくらし方を変えられない。「意味」に問われても、「私」は薄暗い自室の壁を、黙ったまま、カレンダーの余白の数だけ見つめている。人生の意味が「私」を問うとき、「私」はからっぽな自分の姿を、より強く自責することになってしまう。

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