動けなさへの配慮、不可能性を生きるワタシ


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活動力のあるひきこもりに違和感

私は、10年以上ひきこもっている当事者です。

今回ひきこもり新聞に意見を寄せようと思ったのは、活動力のあるひきこもり界隈の人達によって、ひきこもり界隈からも疎外された多くのひきこもりが、置いてけぼりにされて見捨てられていると感じたからです。

また、私自身が集団恐怖というものがあり、最近のひきこもり当事者が集まるという、イベント・サークルに気後れをし、違和感を覚えているからです。

私もそうですが、ほとんどのひきこもりの方は居場所や繋がりを持てず、その中で必死に苦悩し、自分なりの生活を試行錯誤しているでしょう。

そこで私はひきこもりについては、「動けなさ」を主体に捉えていくべきだと思います。

何よりも理解してほしいのは、人の動けなさを尊重するということです。

 

「動けなさ」を主体に

 

私は子供の頃の自殺未遂や現在も抱えている心身的な問題により、今も自らをコントロールできる自信がありません。

例えば、働くことや集団にコミットすることは、私にとって「不可能」なこととしてあります。

もしもそういった「動き」をしてしまったのならば、自らを殺め、他人を傷つけてしまう恐れがあります。

また、家族とも険悪であったため、関係修復に大きなエネルギーを使いました。

そのため、生きるエネルギーが枯渇してしまい、ひきこもらざるを得ない状態にあるのです。

こういった不可能性は物心がついた時からあって「いずれ自分はひきこもるのだろう」と世間からの疎外感を常に持っていました。

ですから、私にとっては動けなさのひきこもりが、人生そのものなのです。

 

恐らく親が亡くなれば私もどうしようもなく死ぬでしょう。

こういう人生というのは呪いであり絶望でしかないのかもしれない。

しかしその中で、幸せや暮らしを考えていくことが重要だと思います。

ひきこもりの生を尊重するとはそういうことです。

 

「可能性への期待」ではなく「不可能性への配慮」

 

私が今、経験から求めているのは、現在の支援の方向とは違った「就労」を前提としない動けなさへの共感です。

つまり、ひきこもりからの「可能性への期待」ではなく「不可能性への配慮」を大切にしてもらいたいということです。

一見後ろ向きかも知れませんが、個々人の不自由さや困難に共感してもらい、世間の人達に配慮してもらうことが肝要だと考えます。

私はとても治療・活動側にはコミットできませんが、できない人なりのできない人へのいたわりや配慮はできるのではないかと思っています。

ひきこもりとは「動けない不在の存在」です。

したがって、「場にいないひとへの想像力」が大切だと思います。

ひきこもり当事者が「語れる一部」の人に限定されないことを望みます。

 

文責・入間のひきこもり