子どもを不幸にするいちばん確実な方法~過干渉について~


【連載】「引きこもり」のエスノグラフィー

(文・喜久井ヤシン)

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親に飼われること

……たとえば、「私」が十六歳くらいの頃、レトルト食品を作るために、「私」がフライパンを火にかけたことを知ると、女性養育者は心底驚いた様子で、「すごいねぇ!」と感嘆した。それは、サルが料理をしたとでもいうみたいな、知能の低い生き物が、火を使っていたとでもいうような意味での驚き方だった。「私」の行動を見た養育者が、そういう反応をすることは珍しくなかった。
…それに、同じくらいの年の頃、「私」が電車に乗って外出をするという時に、女性養育者は、本気の心配から、「大丈夫?」と聞いてくる。
それは、母親の保護が必要な幼稚園児が、一人ででかける時に声をかけられる言い方での、「大丈夫?」という言葉だった。そういう幼い見なされ方が、普段の家庭内でごく自然にあった。

「私」は、女性養育者から見ればいつでも、未熟で、一人で何かをやり遂げる力のない、保護の必要な、どこか欠けている存在でいた。
そのために、女性養育者は「私」に代わって「私」のことを選択してきて、教育にしても、ささいな行動にしても、多くの点で決定権を代行した。
「私」は家の中で、「食事を与えられる」という義務や、「衣服を与えられる」という義務をこなして、女性養育者に飼われていることを労働みたいにしていた。

そういう関係性が毎日、ごくわずかに、けれど絶対的にくり返されることは、殴るとか、暴言とかの害悪に比べると分かりづらくて、目立たない。生活のあらゆる細部で、自分が赤ん坊や、能のない動物みたいに見られることが、どれだけ侮辱的で、あとに残ることか、私はどうやったら上手く伝えられるだろう。
大人になっても、成長しても、まるでドロドロの離乳食ばかり出されるとか、プライバシーもなく、赤ちゃん言葉で話しかけられながら、毎日オムツをさせられるみたいな気分を。

…十七歳になったとき、「私」はそのグロテスクな関係に気がついてしまって、神経が千切れそうなくらいの激怒を起こすようになった。
怒りというか、錯乱状態になってしまって、突然号泣することもあったし、夜中に悲鳴が出たり、物にあたることが起きた。
そのせいで、マンションの下の住人から苦情が来たこともある。ただ、養育者は二人とも、夜の騒音は私とは無関係だと信じていて、問題を起こしているのは他の部屋の住人だと、苦情者に反論していた。養育者は、子供を見る目が盲目で、「私」がそんなふうになるわけがないと、誰よりも自分自身のために否認していたのだと思う。
養育者が「私」の錯乱を知って、関係の破綻が表面化してくるのは、もうしばらく先の月日のことになる。

子どもを不幸にするいちばん確実な方法

教育について書かれた古典に、ルソーの「エミール」がある。その中に、『子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか、それをあなたは知っているだろうか。
それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。』という言葉が出てくる。
子供の好きなものを与えて、一見自由にさせてやっているような子育てなら、多くの場合「良い親」だとみなされるものだと思う。
けれどやりすぎて、過干渉や過保護になったとき、それがどれだけの害悪になるか……、それを、「私」は身をもって体験した。
私が養育者から受けた関係性の特徴には、「私」に対する、徹底的な過小評価があったように思う。
料理でも物でも、養育者は「私」のためになる(はずだった)ことをいくらでもしてくれたけれど、関係性の結果は暴力的なものだった。
これを「虐待」というには、殴る蹴るの暴力とか、育児放棄のネグレクトとは違って、人に訴えても伝わりづらいものだとは思う。
けれど日本の人なら、信田さよ子さんや斎藤学さんの本があるように、アダルト・チルドレンを論じる本で、過干渉もまた、親と子の関係性を破壊する、「精神的な虐待」に位置づけてられている。
多くのお金と物をくれた養育者だけど、それは「私」への過小評価と同時にあったもので、関係性は深く傷つけられることになった。

イソップ寓話集 『子供と鳥』

…イソップ寓話集には、親と子をめぐる話がいくつか出てくる。…その内の「子供と鳥」という話が、印象に残っている。
まず、幼い子供をもつ母親がいて、母親はその子を大切にしようとする。けれど易者による占いがなされると、「その子供は鳥に殺される」という予言を受けてしまう。母親は予言が当たらないように、その子を大きな箱に閉じ込めて、鳥から守るために見張りをするようになる。
決まった時刻に蓋をあけて、食物をさしいれて…、細かなところは書かれていないけれど、おそらく、ほとんど母親としか接触せずに、その子は育っていく。
ある時、母親が蓋を開けて飲み物をやっていると、子供は何気なしに外をのぞいた。その時に、箱の鳥鉤(原語では「鳥」を意味する言葉と同じらしい)が落下してしまい、子供の頭に激突する。そして、その子供は死んでしまう。

献身的な母親 無力な子供

本来は、人間が運命から逃れられないことを示した寓話らしいけれど、私は自分の体験と重ねた、主観的な見方をしてしまう。
…たとえば、子供が亡くなるまでいかなくても、大けがをするとか、半身不随になるとか、寓話とは別の転結なのだけれども……、その子供が鳥鉤によってケガをして、一生残るくらいの障碍を負った場合、母親と子供との関係はどうなるか。
子供のためを思って行動した母親と、思われて大けがをした子供がいたら。母親はたぶん、その箱の中でかどうかは知らないけれど、献身的に介護をして、それまでのように、毎日食事を運ぶだろう。子供の方は、「善良」な母親がいて、食事を与えられて、成長して、…そしてたぶん、母親のことを「感謝」しないといけなくなるだろう。
「体の不自由な子を育てる母親」を、その子としても、世間としても、責めることはないだろう。
ただ、大切に育てられて、障碍を負った子供が、そうなった原因や、自分を傷つけた加害者について考える時がきたら、どうなるか。
原因になった人間に怒りや憎しみを向けて、体が痛いのはお前のせいだ、と訴える権利が、力ない子供に確保されるとは思えない。
過干渉という精神的な虐待には、第二段階の害があると思う。加害者の良心的な表面によって、加害者を正当に責める権利を、奪われてしまうことだ。
ケガをした子供は、家事にしても、食事にしても、自分一人ではおこなう力がなくて、母親に助けてもらわなければ、生活もままならない。母親は、そんな弱々しい、無力な子供を大事にして、「善良」な、「良い母親」として面倒を見てくれる。………でも、その子供が加害を思い出して、傷口の傷む時に、訴えてしまってはいけない?生活する力を奪われて、自力の意志や行為を弱めてしまったのは、そもそも、あなたのせいではなかったかってことを。

子どもを不幸にするいちばん確実な方法~過干渉について~ 以上

参考 「エミール(上)」 ルソー 今野一雄訳 岩波文庫
「イソップ寓話集」 中務哲郎訳 岩波文庫

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