【当事者手記】『海外へ雄飛する』の虚実 【連載】「ひきこもり放浪記」第5回


(写真・坂本龍馬像 by Photock)

(文・ぼそっと池井多)

いくつもの理由が重なって

前回「ひきこもり放浪記 第4回」では、私が「日本では死ねない」と思い、
アフリカへ行くことにした経緯を書かせていただいた。

それはそれで本当なのだが、
一方では、意識というものは重層的にできていて、
人が一つの行動を決定するときには、
いくつかの異なる層で異なる要因を考え
それらを綜合させて結論を出しているものである。

その過程をすべて語るのが面倒だから、たとえば、

「そのとき、私の頭に神が降りてきました。だから私は日本を飛び出したのです」

といったように、
人は一つの単純な因果関係に話をまとめたがる。
そのときには、決定に際してあれこれ考えた逡巡や因循(いんじゅん)は打ち捨てられている。

明快で迅速なストーリー展開を期待している方には申し訳ないのだが、
この「ひきこもり放浪記」の主眼はやはり、
なぜ私が断続三十余年にわたるひきこもりになったか
ということをできるだけ誠実につづることだと思うので、
しばしそうした部分に言葉を立ち寄らせていただきたい。

「死地を求めてアフリカへ行った」
というのはそのとおりなのだが、
「国内でひきこもりになるのがカッコわるいから海外へ逃げた」
というのもまた、厄介な真実として意識の異層に鎮座しているからである。

 

ただのひきこもりでは恰好がつかなくて

前にも述べたように、
私の大学時代に「ひきこもり」という言葉はまだなかったが、
なかなか部屋から出られない、社会へ出ていけないという自分を
私は認めざるをえなかった。

それは決してカッコいい存在ではなかった。
友人たちがみんなして私を背中から指さし
「あいつ、部屋にばかり居て、なんかおかしいよね」
「クラいよね」
「ダサいよね」
などと囁(ささや)きあっているような気がした。

しかし、これがもし
「せまい日本を飛び出して海外へ行った」
となれば、どうだろう。

とたんに私は、彼らの口を封じられるように思った。
彼らは私を、スケールの大きい、行動的な人間と評するかもしれない。
女の子たちからはエネルギッシュで有能な男性と見られ、
年長者からは「将来が楽しみな、頼もしい若者」と褒めてもらえるかもしれない。

そんな生臭い妄想も手伝って、
私はすでに大学在籍中から国外流出を繰り返していた。
死地を求めてのアフリカ行きも、
そんな癖(へき)の延長線上にあったのである。

 

海外でも やっぱりひきこもり

では、海外へ行けば、ほんとうに行動的になるかといえば、
そんなことはなかった。

そこに待っていたのは、「そとこもり(海外ひきこもり)」の日々である。

ふしぎなことに、私は地球上どこの町へ行っても、
やはり午前中は起きられないのであった。

たとえば国境を超えて、時差が2時間おそい国へ移動したとする。
すると、最初の日は、身体がまだ前のタイムゾーンに慣れているのか、
新しい国の時計で2時間早く起きられるのだが、
次の日あたりから、また昼まで起きられないのである。

どこの国の入り口でも、入国目的はいつも「観光」と書くのだが、
じっさい観光など満足にした試しがない。

ウィーンで訪れたフロイトの家のように、
万に一つぐらいは自分から訪れた場所もあったが、

「なぜ、わざわざしんどい思いをして宿の部屋を出て、
名所や旧蹟や観光地へ出かけていかなくてはならないのか。
そんなものを見て、いったい何になる」

と考えていたものである。

しかし、どこの国でも腹だけは空くから、
昼過ぎになって這いつくばるように何か手ごろなものを喰いに出る。

たいていは、逗留している安宿と目と鼻の先にある、場末の食堂である。

ガイドブックに出ているような、日本人がよく来る店などは極力避け、
地元の人でさえ、できるだけ話しかけてこない店をえらび、行きつけとした。

だいたい私は一つの街にたどりつくと、
短くとも一週間、長ければ半年は動かないので、
そのあいだ毎日、その店に通うことになった。

 

坂本龍馬コンプレクス

「国内でひきこもりになるとカッコわるいから海外へ」
などというケチな了見は、
近代以降の日本にうっすらと瀰漫(びまん)している
「外向優越主義」
とでもいうべき社会風土を、私が勝手に内面に取りこんで、
人々の目をくらますために打ち出した虚栄の産物であった。

「内へ」「外へ」という二つの方向性を比べたとき、
島国日本の社会はどうも「外へ」に、
より大きな価値を認めたがるように思う。

たとえば坂本龍馬にあこがれる人は多い。
「海外に雄飛するぜよ」
という彼の外向きベクトルに、みんな便乗したがるのである。

「外へ向かう」というのは、
なるほど、たしかに一つの価値であるにちがいない。

しかし、たとえば「ひきこもってじっくり自分に向かい合う」というような
「内へ向かう」というのだって、同じくらい価値あることではないのだろうか。

また、留学という行為を考えてみよう。

もちろん、ニューヨークならニューヨーク、パリならパリでしかできないことを研究するために、当地へ留学する人もいるだろう。
しかし、
「なにも海外まで行かなくてもいいじゃない。
日本だってまじめにやれば、十分それは習得できるのに」
というようなことを修めるために、当時はわざわざ海外へ留学する人も多かった。

なぜか。
箔(はく)をつけるためである。
外へ出ることは箔となり、内にこもることはならない。
日本人の価値観の平均値が外向寄りなのである。

だから、私のような見栄っぱりの若者がたちまちそれを内面化し、
わざわざ海外まで逃げていって、ひきこもっていたのだと考えられる。

今の私の方が、若い時分の私よりも、少しはマシになったと思う。
なぜならば、へたな策を弄さず、
日本国内で堂々とひきこもっているからである。

・・・「ひきこもり放浪記 第6回」へつづく

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6 Comments

  1. ひこにゃん

    このシリーズ すんげえ面白いです。いつも楽しみにしてます。

  2. 万人にとっての余所者

    読みました。
    書き手の内面、考えに、今の僕にも共感出来るところが多々あって、
    興味深いと同時に、驚きました。
    読ませて頂いて感謝しています。
    楽しみにしています。

  3. ぼそっと池井多

    ひこにゃんさま コメントをどうもありがとうございます。
    今後ともよろしくお願いいたします。

  4. ぼそっと池井多

    万人にとっての余所者さま コメントをどうもありがとうございます。
    深くお読みいただいているようで、まことに感謝いたします。
    本シリーズはまだまだ続きます。
    今後ともよろしくお願いいたします。

  5. ともひこ

    第7回から逆に読んでますけど、これ、ホントにほかの人が言われているみたいに面白いですね。
    ご本人はあるいは嫌がる表現かもしれないですけど、「沈没」ですよね。「いや沈没ではなくて、外こもりです」という反論、かえってきそうですけど。
    日本人一般が、「外に向かっている」というのは、確かにそうかもしれません。
    ハクをつけるため…そうかもしれません。
    外に出ると評価されますね。
    アベ氏をはじめ(南カリフォルニア大学への“留学経歴詐称疑惑”)、政治家二世が学歴ロンダリングに行くなんて、その典型かなとか思います。
    ご本人はこれは「旅行記ではない」という感じかもしれないですが、わたしは旅行記として読んでいます。

  6. ぼそっと池井多

    ともひこさま コメントをどうもありがとうございます。
    おっしゃるとおり、立派に「沈没」でもあったのだと思います。
    今はどうかわかりませんが、当時は海外の大都市へ行くと、そこで「沈没」している日本人旅行者が多くおりました。
    しかし、彼らがその都市で送っている生活をよくみると、日本国内のひきこもりと、そう大差ないのです。ただ「海外にいる」というだけで、やたら行動的・生産的であるイメージを放っているのですが、それがただの「上げ底」にすぎないという印象を、私などは持ったわけです。
    そこで私はあえて、それらの日々を「そとこもり」という視点からとらえなおすことを試みているというわけでございます。