私の失った十年の時間~引きこもりのエスノグラフィー


(文・喜久井ヤシン)

テレビゲームのようなやりなおし

テレビゲームの世界で、ステージを進めていこうとしても、次のセーブポイントにたどり着く前にやられてしまった場合、最後にセーブした状態からやりなおさねばならない、というシステムがある。そこでは総プレイ時間は加算されるけれど、ポイント前に起きた敵の撃破や経験値の獲得は残らない。
ゲームオーバーになれば、また同じところからプレイを再開させなければならない。
私の経験した「引きこもり」的な日々に は、このシステムを思いおこさせるような時間の感覚があった。社会に出て活発に暮らしている人たちになら、たぶんだいたいは昨日の自分の蓄積があって、そこから今日の一日を過ごし、そして明日の自分の仕事へとまた向かっていく…、そんな毎日の積み重ねをして生きているだろう。
私が人とうまくつながれなかった時間は、ざっくりとくくるなら「十年」にもなる年月だったけれど、積み重なる地続きの「十年」ではなかった。
一日が終わるたびゲームオーバーになったみたいに、過ごしたはずの「一日」が消去されて、次の日になってももう一度同じ「今日」をやりなおす…そういう断片化した一日一日みたいなものだった。それなのに総プレイ時間はのびていって、いつまでも十代二十代ではいられ ない、気づけば一番若くいられた時代を人生から失っていることを思い知る。
ゲームのキャラクターが敵にやられて、スタート地点に戻って同じステージを始める…、けれど同じところでやられて、もう一度初めからやりなおす。けれど進んでいこうとしても、また同じところでやられて、スタート地点に戻る。それでも……。……………。

バラバラだった時間

私は人との関わりの切れていた期間に、「一年」なんていう長い時間は過ごしていない。
過ごすことができていたのは、せいぜい三百六十五のちょっとした「一日」だけだった。
「一日」は一週間の中でも十年の中でも同じ「一日」の経過にすぎなくて、…もっというなら「一秒」は「一秒」にすぎな くて…、昨日や明日とはつながっていない、バラバラになった毎日の時間だった。
そうしていなければ、人生で最も可能性の満ちていた青年期の「一年」や「十年」を、自分がまるごと喪失しているなんていう事実と向き合わなければならなくなる。
断片の時間には耐えられるけれど、人生の全貌の大きさには全然耐えられない。
たとえば「将来どうするのか」なんて問いを自分に発してしまったら、その時になって初めて「十年」の時間は「十年」のかたまりとしていっぺんにやってくる。
バラバラだった小石くらいの時間が巨大隕石みたいな大きさて飛来してきて、私の頭は何も考えられない半狂乱になる。

私のすべてが生きているのではない

古代ロー マの詩人ホラティウスは、命の終わりに対して、『私のすべてが死ぬのではない』と言った。
肉体的に亡くなったとしても、その人の霊性や仕事によって、その人の生はこの世に残存する、というような意味…。実際二千年の時を経ても、私がこの言葉を引用しているあたり、ホラティウスの「すべてが死」んでいるのではない。
生きている、ということが肉体以外の生を意味するなら、私の一人きりの年月のどこかに生命があっただろうか…。
世の中での成功や善行どころか、人とまともに付きあうこともできなかった。誰かから愛されたこともなかったし、一回のセックスの経験もない。何十年もの時間があったのに、この世に何も残すことができなかった…。
私は命の終わりに「私のすべてが死ぬのではな い」なんて言えなくて、私が肉体的に死ねば、「私のすべては死ぬ」。…それでぜんぶがおしまいになる。
赤ん坊のころだったなら、私にも可能性や希望がありえただろうけれど、社会に出ていった人たちと比べて、この十年に積み重ねられたものはなにもない。
ホラティウスの言葉を反転させるなら、私は「私のすべてが生きているのではない」。延々と流れる時間があって、心臓だけが延命に動いている。

茹でガエルのような時間

熱湯に入れられたカエルは激痛に飛び上がるけれど、水の中に入れられて、それをゆっくりと熱せられていけば、水温の上昇が分からないで茹でガエルになってしまう……。
そんな話みたいに、私もまたゆっくりと危機的になる 時間の中にいて、長い年月をかけてゆっくりと瀕死になっていったみたいな感じがする。
もしも十年前に……おかしな仮定だというのはそのとおりなのだけど……もしも十年前に、からっぽな「十年」がいっぺんに襲いかかってきたなら、私は飛び上がってその半生を拒みにかかっただろう。でも「十年」は……当たりまえの話で……まる十年の時間をかけてゆっくりと過ぎていった。
私はそれだけの年月が終わって年老いたあと、ようやくとり返しのつかないものを知る。
多くの人たちが人生を飛び立っていった時間を、私はひたすら棲息だけについやしていた。
有意義になりえたはずの遠大な歳月は空白になっていて、無残な老衰者に時間が煮えたぎっている。

…私は荷うことのできない巨大な時間から 全力で逃げ、自分のものである毎日のバラバラな時をやりすごそうとする。
結果として過ぎていくリアルタイムの一日が、自分の部屋という容器の水温をまたわずかに高めているのだとしても、私の一日は感覚の上で消去される。
そして「一日」を失くして、「一年」を失くして…、そして次にやってくる「十年」さえもきっと失くせる…。
日々を過ごしながら、生命が安穏になることはない。内心では痛烈にわかっている、人生の時間は沸騰していて、大切なものがもう死滅したっていうことを。

以上

「エスノグラフィー」は文化人類学から生まれた言葉で、調査対象となる集団と共に生活するなど、現場へのフィールドワークによって記録がなされる研 究方法のこと。
本稿は「引きこもり」当事者による経験談だが、「引きこもり」の渦中にあっては書くことのできなかった精神面での分析も綴られている。自分自身を研究対象とするような距離感を表すために、エスノグラフィーというタイトルがつけられている。

(文・喜久井ヤシン)

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