「孤独論」著者 田中慎弥氏インタビュー


言葉の蓄積が大切

 

木村:田中慎弥さんは小説家の言葉、文字を通して人とつながっていた部分があったのかなと思っています。また、僕たちは新聞のひきこもり体験を通して今もひきこもっている人たちと繋がれるのではないかなと考えています。ひきこもり新聞の可能性や当事者の声を発信していくことについてどう思いますか。

田中:まずはとにかく出し続けた方がいいと思います。

こういう新聞媒体、特にひきこもりの人を読者としてある程度想定している場合は、多分読者との距離のとり方が微妙だと思うんですね。

べったりになるとそれはちょっとまずい。つまり皆さんがおっしゃっていることが絶対的なのだってなってしまうと、それはどちらにとっても多分メリットはないので、ここではこういうことを言ってますっていうことを自分たちの責任でちゃんとそれは書く。

読者とのやり取りの中で、紙面が変わっていくっていうことはもちろんあると思います。方向性とか、書き手っていうのはそこに責任が伴う。

新聞媒体を作るってことは、言葉・文章が好きだっていうことが前提としてないとできないことだと思うので、書き手の側がどれだけの言葉の蓄積をもっているかっていうことが、試されていると思います。

書くということは難しいこと

 

木村:ひきこもり当事者の人たちっていうのは、自分の状況が混乱していて物語にできていない。もしかしたらそれで苦しんでいるのかなって思うんですけれども、田中さんは書くことによって自分を癒してきたというか。

田中:ああそれはないです。それは全く無くて、ただ書くって行為を続けてきたということで、なんとか保ってきたのであって、それが救いになるとか癒しになるとかっていうことは多分自分の場合はないです。

救いを求めて書くっていう形もありうると思うし、ひょっとしたら自分もそうだったかもしれませんが、書くっていうのは私にとってはありがたいことでもあるけれども、ものすごい難しいことなので。

さらさら小説が書けるってことは絶対無いですから。そういう作家っていうのはまずいないと思う。

一番楽になれるのは、書き終わった時ですね。書いている時ってギリギリの状態でやっている。書くことによって何か吐き出すという場合もひょっとしたらあるかもしれないけど、ただ単にこう思ってますっていうことを書きつけたノンフィクションを私は書いていない。距離をとって言葉を書きつけていくっていうことをやるから楽はできない。

言葉っていうのは自分にとっては難しいもの。なので、文章を書くことによって、結果的に解放され、結果的に原稿料、印税を得て生活を何とかすることができているということはありがたいですが、書くという行為そのものは、ものすごく苦行なわけではないんですけど、かなり自分にとって難しいことです。

木村:ひきこもっていたときに書くということは、楽しくというよりは、格闘していたということですか。

田中:それは未だにそうですね。仕事をはじめてからのほうが大変ですから。私は新人賞でデビューしたんですけども、その前に一回新人賞に応募してそれは落選してるんですね。一回目の時にダメだったのはやっぱり、書くということに関して、なんていうか、自覚が足りなかったというか、言葉の選び方も雑だったのかもしれない。二作目の受賞した作品のほうが、集中とか抑制が効いていたんだと思う。ちょっと技術的な話になってしまうんですけど、そういう自覚をちゃんともって、自分が何を書いているのか、今書いているものは、人にどう読まれるか、客観性ってことですけども、そのあたりの自覚は持っていないと。

木村:どうもありがとうございました。長い間ありがとうございました。

(インタビュアー・木村ナオヒロ、撮影・土橋詩歩)

更新情報が届き便利ですので、ぜひフォローしてみて下さい!
Twitter
Facebookページ
ご購入はこちらをクリック