ただ”居る”ことができない『引きこもり』のエスノグラフィー


(文・喜久井ヤシン)

『居る』ことのむずかしさ

成功とか自己実現とかでなく、「居る」、という、ただそれだけのことがどれだけうまくいくかによって、結局のところ一生の幸せが決まるんじゃないかと思える…。
私の「引きこもり」でいた期間は、端的に「居る」ことの苦しさでできていた。
生活上の衣食住に困ったことはないし、パソコンもテレビもあって、物理的には不自由のない家だったけれど、それは「居る」ことを快適にさせたわけではない。
父母とくらす家の中で、隔離したみたいな一人きりの部屋でずっと息をつめて棲息をしていた毎日だった。
長い年月のあいだ、社会的には部屋の中で「居る」ことしかしていないにもかかわらず、私が拒絶したかったのは、「居る」ことそのものだったような思いがする。

自分を囚人にさせる

〔働きもせずに家にいるような人間は、いけないことをしている〕。そして〔いけないことをしている人間は、楽しい思いをすべきではない〕。……そんなシンプルな公式にずっと支配されていて、私は自罰的に、自分という囚人を監獄に放り込むぐあいに、自分の部屋を刑務所にして楽しさを断っていた。
ゲームをしたとしても面白がってはならないし、気軽な散歩のために外へ出るなんてあってはならない…。
ベッドから目覚めてさわやか朝をむかえるべきではないし、心地の良いソファに座ってリラックスするなんて不適切…。
私は自主的な囚人になって、社会的に無能であることに対する刑罰を率先して引き受けていた。「引きこもり」が罪名となるみたいに、それへの反省を表すための、くつろいではならない義務みたいなものがあった。

『居る』ことを拒んで

『自分の家の中にいてもくつろがないことは道徳性の一部である』(テオドール・アドルノ「ミニマ・モラリア」)。
この言葉は……「引きこもり」の主題とは違って……亡命した知識人の心象のために書かれている。
故郷を剥奪された難民が、避難先で急場しのぎの住居を与えられる…その住み心地が悪いものでなかったとしても、自分の居るべき場所ではないという意志によって、家の中でくつろがないという道徳性もある…みたいな意味…。
現代の日本の例で探すなら、福島の原発避難者や、沖縄の米軍基地付近の住人に近しい心境があるかもしれない。
その土地で日々のくらしを続けていきながらも、「私は楽しんでいない」という表明のために、自分の家の中にいてもくつろがない自戒を含ませる…そんな心理が。

『引きこもり』の『感情労働』

サービス業や介護職の分野で、「感情労働」が問題になることがある。接客などの対人業務で、どのような気分のときでも笑顔をつくり、毎日明るくふるまいながら労働をしなければならないといった、精神面での負担について語られるときに出てくる。
内心に落ち込みや悲しさがあるときでも、人前に出れば……故障することのない機械みたいに……マニュアル化した快活な身ぶりで作業をこなさなければならない。
言葉の使われる本来の方向とは反対だけれど、私の「引きこもり」の期間にも「感情労働」的な苦しみがあったと思う。
それは誰かとの感情豊かな交流のためではなくて、切断するための方法…喜怒哀楽の表れを押さえ込んで、無感覚で、無表情な、人に気持ちの動きをさとらせないようにするかたちでの「感情労働」だった。
社会参加をしていないのは罪であって、私は本気で、趣味や交友のあるゆたかな日々を送ってはならないと思っていた。
「楽しんでいない」ことを表すためには、うれしさがあっても感覚を潰して、硬い表情で、言葉少なにうつむいているべきだ。
なんの仕事もしていない、用事の一つもない毎日の中では、苦しむことが唯一自分に課せられていた社会上の割り当て業務ではなかったか…。
私は毎日疲れ果てていて、抑うつ的な意気消沈と、体力を使い切った人が感じる猛烈な虚脱感に打ちひしがれることがよくあった。
そこには、すこしでも笑ってはならないし、絶対に気楽さを表に出してはならない……そんな抑えこみのために使う「感情労働」の苦役もあった。

自分から居心地を悪くする

「引きこもり」の沈うつな苦しみにあって、なおかつその苦しみの一部は……私にとって……自分の状況を確保させる苦しみだったので、解決するわけにはいかなかった、という面もある。自縄自縛の苦しみだったけれど、それが私の「引きこもり」の罰として、社会的な感性があることを担保させる命綱みたいなものだった。
大勢の人たちが働きに出たり勉強に行っている平日の昼間でも、私は一人部屋の中にいて、自分勝手でわがままな肥満した時間を過ごしている…。
湧出する罪悪感に対して私は、「居る」ことにくつろいでなどいないし、一切の快適さや喜びなんてないんだと表して抗弁する。
ただ、「居る」しかできないのに自ら居心地を悪くするスタンスこそ、結局のところ人間性を屈折させて、年月を長く劣悪なものへと悪化させる要因になっていたのだけど……。

以上

「エスノグラフィー」は文化人類学から生まれた言葉で、調査対象となる集団と共に生活するなど、現場へのフィールドワークによって記録がなされる研究方法のこと。
本稿は「引きこもり」当事者による経験談だが、「引きこもり」の渦中にあっては書くことのできなかった精神面での分析も綴られている。自分自身を研究対象とするような距離感を表すために、エスノグラフィーというタイトルがつけられている。

 

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2 Comments

  1. あめ

    わかりすぎる

  2. ひきこもり12年選手

    本当にその通りです。
    何年たとうと、精神的に休まった感覚がない。
    でも、人目を気にしない無職の方からすると
    もう十分休んだでしょう?と言われてしまう。

    私からすれば働いていないのに、どうして平気で外をぶらぶらできるのか?
    まったくもって理解できない。
    それは、同時に相手から見ても、私を理解できないということなのでしょうね。